坂口安吾の『桜の森の満開の下』という短編小説がある。
私はこの小説がとても好きで、もう何度も読んでいるのだが、わからない。具体的にどういったテーマを扱っていて、私はこの物語の何にそこまで惹かれているのかということを、うまく言語化できないでいる。短編小説だというのに情報量が多く、感想があっちこっちに飛び散らかってしまうのだ。
そこで今回は、私がこの小説を好きな理由のうちひとつだけを掘り下げてみることにした。
女が狐っぽい
私がこの小説に惹かれる理由のひとつが、これである。
この物語に登場する女は、人間なのか鬼なのか最後まではっきりとは描かれないものの、少なくとも「狐であった」といったような言及はない。それだというのに私の脳内にいるこの女は、黄色い尻尾を隠している。
私はなぜ、この女に狐を感じてしまうのか。
そんな疑問の解消だけを目的に、改めて『桜の森の満開の下』を読んでみる。
目次
あらすじ(ネタばれあり)
まずはざっくりとしたあらすじを記載しておく。
- 鈴鹿峠に山賊が7人の女房と住んでいる
- 山賊は満開の桜恐怖症(理由はわからないけど怖い)
- 山賊はある日、美しい女を女房にするために攫ってきた(女の夫は殺した)
- 女の命令で、山賊は6人の女房を殺した(1人だけ女中にするために残した)
- 女が山暮らしを嫌がったので3人で都へお引っ越し
- 都で女が首遊びにハマり、毎日山賊は女のために首を持ってくる(もちろん殺人)
- 山賊、都での毎日が嫌になる
- いろいろあって、山賊と女は山に帰ろうとする
- 桜の森の満開の下を通ったとき、山賊は女が鬼であると気づき、殺す
- 鬼だと思ったけどやっぱり女は女で、嘆く山賊
- 桜の森で、山賊も女も消える
再読前に感じていた狐っぽさ
改めて再読する前に、もともと私が女に対して感じていた狐っぽさについて書いていきたい。
美しいというだけで、もはや狐っぽいのだ
この物語に登場する女は、かなりの美女である。
女の美しさに見惚れた山賊は殺すつもりのなかった相手を「ふと」殺してしまうし、同性である女房たちも、女の美しさに胸を打たれていた。容姿だけではなく声も美しいようで、ふっくら透き通っているとのことである。視覚と聴覚どちらにも訴えかける美を持っているのだ。
狐は女性に化けることが多いとされている。生態から伝承まで、狐について幅広く解説している『野生動物学者が教えるキツネのせかい』という本にも、次の一文がある。
キツネはよく、女の人に化けます。
引用:塚田英晴著『野生動物学者が教えるキツネの世界』
さらに言えば、私の中では美女に化けているイメージがある。たとえば九尾の狐。確か美女に化けていたはず。かなり悪いヤツだったと記憶している。なぜ狐は美女に化けるのか。諸説あるだろうが、ひとつ私の考えを述べるなら、次の通りだ。
そもそも狐という生き物が、美しいからである。
言葉巧みに男を操る
いきなりだが、楊貴妃は狐っぽいだろうか?
私の答えは否である。彼女は絶世の美女とされているものの、それだけでは狐的な気配は感じない。
『桜の森の満開の下』に話を戻す。
この女は、ただ美しいだけではなく、実に言葉巧みなのである。
たとえば、女房殺しのシーン。
女は山賊に7人の女房がいたと知ると、彼女たちを殺すよう山賊に要求する。さすがに渋る山賊だが、畳みかけての彼女の一言がこれだ。
「お前は私の亭主は殺したくせに、自分の女房が殺せないのかえ。お前はそれでも私を女房にするつもりなのかえ」
引用:坂口安吾著『桜の森の満開の下』
そうなのだ。
この山賊、この女の夫を殺して、女を自分の女房にするために自宅に連れ込んだのである。そうしたら、すでに7人も女房がいるという状況。面白いはずがない。残酷な要求だが、筋は通っていると言えば、通っている、ように思える。フェアトレードの精神である。そしてこれに逆らったら「私はあなたを軽蔑しますよ」という宣言ともとれる。女に心底惚れている男は、結局は女房たちを殺すしかない。
ほかにも、状況に応じて女は言葉を巧みに使い分ける。
出会ってすぐに山賊の自尊心を煽り、自分の要求を通すことに成功していた。
都に行くことを決断させる際も、「強い男」の論点を巧みにずらして承諾させている。
さらには山賊が女を都に置いてひとりで山に帰ろうとしたときは、甘えることで山賊を感動させ、結局は彼が離れていくことはなかった。
残酷=妖怪という図式
『桜の森の満開の下』は残酷描写が多い物語である。
連れ添った女房を自分の手で斬殺するという展開も非常に残酷だし、首遊びのシーンなどはそのもっともたるものだろう。女が人間の首を使ってままごとをするシーンなどはこれでもかというほど丁寧にその醜悪な光景が描写されていた。
簡単に殺しを命じて、人の首で遊ぶ。
なんという残酷な女なのだろうか。
そもそも人の心を持った存在であるならば、こんなことはできまい。これはモノノケの類の仕業に違いない。
という、単純な「残酷な奴=妖怪」というイメージも、女が狐っぽく見える要因かもしれない。とは言っても、どちらかというとこの残酷さは狐に限らず、人ならざる者、そして人と敵対する者全般に対するイメージではあると思うが。
また、女の残酷さは女房殺しや首遊びなど派手なシーンばかりではない。
たとえば、やたらと切り替えが早すぎるところもまた、ある意味では残酷だと感じる。
山賊は始めは男を殺す気がなかったので、身ぐるみ脱がせて、いつもするようにとっとと失せろと蹴とばしてやるつもりでしたが、女が美しすぎたので、ふと、男を斬りすてていました。山賊がふりむくと女は腰をぬかして彼の顔をぼんやり見つめました。今日からお前は俺の女房だと言うと、女はうなずきました。手をとって女を引き起こすと、女は歩けないからオブっておくれと言います。
引用:坂口安吾著『桜の森の満開の下』
男と女が出会うシーンの引用だが、私はこのときの女の切り替えの早さにいつも引っかかっていた。
目の前で夫が殺される。腰を抜かしてぼんやりと山賊を見つめる。これはわかる。予想外のことが起これば、ぼんやりしてしまうこともあるだろう。女房になれと言われて頷く。これもまあ、わかる。実際のところ、この女にはもう、頷くしか選択肢がないだろう。
最後に……歩けないからオブっておくれ!?
これはちょっと、どうなのだろう。いや確かに腰が抜けているから、本当に歩けないのかもしれないが。いきなり夫を殺した男に要求を通せるものだろうか。ぼんやりした後にくる感情は恐れとか悲しみとかじゃないんかい。百歩譲ってここまでは、腰が抜けていて本当に歩けなかったのだろうということで、まあ、わからなくも、ない、のかも……?
ところが背負われた女はやたらと山賊を煽り、さっさと家に連れて行くように急かすのであった。夫が殺された事実も、自分を背負っている山賊こそが夫の仇であることも、すべて忘れてしまったかのようなのだ。
再読してみて気が付いた「狐っぽさ」
ここは女がどうの~というよりも、作品の演出にかかわるところかもしれないが、再読してみて、ひとつ気になる描写があった。
物語の冒頭と終盤それぞれに、山賊が女を背負って山道を歩くシーンがある。
終盤では、背負っている女が鬼であると唐突に悟った山賊が、女を殺してしまうのである。しかし我に返ってみると、やっぱり女はいつも通り、女だった……というオチだ。結局最後まで、女が人間だったのか、怪異だったのかはわからないままで終わる。
気になるのは、山賊が女を背負っているときの状況だ。
出会いのシーンの一部を引用する。
「でも、一度だけ降りておくれ。私は強いのだから、苦しくて、一休みしたいというわけじゃないぜ。眼の玉が後側にあるというわけのものじゃないから、さっきからお前さんをオブっていてもなんとなくもどかしくて仕方がないのだよ。一度だけ下に降りてかわいい顔を拝ましてもらいたいものだ」
「厭よ、厭よ」と、又、女はやけに首っ玉にしがみつきました。引用:坂口安吾著『桜の森の満開の下』
山賊の台詞から、女の顔が見えていないことがわかる。
そして女のほうは、かたくなに背中から降りたがらない。「寂しい場所からは一刻も早く離れたい」ともっともらしいことを言っているのだが、果たしてそれは本当なのだろうか? と疑ってしまう。本当はもっと別の、背中から降りたくない理由があったんじゃないの? という気がしてくる。たとえば、顔を見られたくないだとか。尻尾を見られたくないだとか。
山賊は美しい女房を手に入れたとホクホクしながら歩いているが、その背中にいるのは美しい女などではなく……綺麗な着物に身を包んだ一匹の狐だったとしたら、絵的に素敵である。
ちなみに終盤のやり取りは、この出会いのシーンを想起させるような構図になっている。山賊と女も思い出話に花を咲かせてラブラブである。おそらくこのときも、女の顔は山賊からは見えていないと思われる。
その後、物語のキーとなる桜の森にさしかかると、山賊は女が鬼であると悟るのだ。
とっさに彼は分りました。女が鬼であることを。(中略)男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。その口は耳までさけ、ちぢくれた髪の毛は緑でした。
引用:坂口安吾著『桜の森の満開の下』
見た目もしっかり描写されるのだけど、背負っている以上は真正面から女を捉えているわけではないはずだ。
女は山賊にとって、めっちゃ可愛くて大事な嫁! である一方で、どういうわけか不安な気持ちにさせられるときがあるんよな~……という存在だ。山賊自身は、女そのものが怪異であると疑っている様子はない。女の残虐な趣味嗜好をこれでもかと叩きつけられている読者は、女が鬼であると言われて、納得してしまう。
やはり女は怪異であったか……と思ったところで、やっぱり女だったというのである。その後、桜の中で男も女も消えてしまうという、かなり不可思議な事象が発生して、物語は終わる。人間なのか、鬼なのか、という問いが解けぬままに「みんな消える」というさらなる謎を吹っ掛けられてしまうのだ。
再読したら「狐っぽさ」が崩れてきた
美貌、言葉の巧みさ、残酷さ。改めて書いてみると、やっぱり狐っぽいなー。「顔が見えない」というところは女の特徴ではないので外したとしても、これだけの「狐っぽさ」がある。
しかし、この3つのうちどれかひとつが欠けると、途端に狐っぽさは減ってしまう気もする。絶世の美女だったとされる楊貴妃に狐っぽさは感じない。ただただ残酷なだけでは、狐っぽくはない。もっと醜悪な妖怪を想像してしまう。(妖怪とはいえ、狐はやっぱり可愛いのだ)
果たして再読したからといって、この狐っぽさが覆ることはあるのだろうか、と思っていたが、覆るかもしれない。
ほかの登場人物が持つ要素
この物語の主な登場人物は、山賊と女。次いで、7人の女房たちの中で唯一残された”ビッコの女”(原文の呼称)。この3人である。
やたらと女の残酷さが際立つが、よく読んでみると、山賊もとんでもない男だ。
山賊である時点でとんでもないに決まっているのだが、彼はまず殺しをなんとも思っていない。これまでも旅人から荷物と命を奪って生活してきているし、それを誇りに思うような倫理観の持ち主なのである。
物語の終盤で、山賊は都暮らしが嫌になり、ついに女を残してひとりで山に帰ろうとする。サラッと読んでいると、毎日人を殺して首を斬り続ける日々に嫌気がさしたように思えてしまうのだが、よく読んでみると、そうではない。
山賊は、人の首を毎日切り取って持ってくること、そのこと自体に嫌気がさしたわけでも、良心の呵責に耐え切れなくなったわけでもないことがわかる。女から「憎たらしい顔の坊主の首が欲しい」と言われて「面倒くさいから5つの首をぶら下げて帰った」という描写もある。女の希望とする「憎たらしい顔」を自ら選別することに比べたら、一晩に5人を殺して首を持って帰ること自体は造作もないことのようだ。
彼にとって、旅人の命を奪うことも、隣人の首を女の土産にすることも、そのこと自体は別にたいした問題ではない。
なかなかに残酷であるが、女の首遊びのようにねっとりと細かく描写されていないから、あまり目立たないだけである。
次に、ビッコの女。
彼女は完全に被害者ではあるものの、よく考えると、結構怖いのである。
ビッコの女は、もともとは山賊の女房だったが、女房殺しを生き延びてからは、山賊や女の女中として生活することになる。都にもついてくる。都に来てからの彼女はそれなりに幸せそうだ。毎日女の世話をして、家事をして、合間に近所の人たちとお喋りをする。この生活を気に入っていると、彼女自身そう語るシーンがある。
女ほどではないにしろ、切り替えが早い。
山賊とも対等に会話している。かつて自分を殺そうとダンビラを振り上げていた男と普通に会話している。女の首遊びについても知っており、たまに首の位置を動かして女に叱られるらしい。
山賊が夜な夜な首を集め、女がその首でのままごと遊びに興じていると知りながら、ご近所さんとの会話を楽しむ。あまりにも異様な適応能力の高さだ。
「普通の人間らしさ」も併せ持っている
女房殺しや首遊びなど、やたらと残酷さが際立つ女だが、そういう作中屈指の残酷シーン以外の女は、意外にも普通だ。
女の要求をピックアップしてみると、次のようなものがある。
- 歩けないからおぶってほしい
- 寂しい場所には長くいたくないから、急いで家に連れて行ってほしい
- おいしいものが食べたい
- 都で贅沢な暮らしをしたい(都で暮らしていたときに戻りたい)
- 汚れた手で着物を触るな
- 部屋を綺麗にしろ
もともとは都で暮らしていた女が、いきなり山賊に攫われて寂しい山暮らしを余儀なくされている。
そう考えると、多少のわがままは仕方がないような気がする。というか、山賊は攫ってきたんだから、この程度のわがまま叶えたれよと思ってしまう。獣の血がついた手で女の着物を触ろうとして叱られる、なんてことも書いてあったが、そんなの誰でも嫌だろう。
ほかにも、意外と山賊の話をきちんと聞いて相槌を打ってやったりもしている。見下したり、意地悪したりはするものの、まるっきり奴隷のように扱っているというわけでもないのだ。
それでもやっぱり残る「狐っぽさ」は、「人間とは違う世界を生きている」感
女にも人間らしいところがあり、山賊やビッコの女にもちょっとおかしいところがある。
最初に、女が狐っぽいと思う理由を3つ挙げた。
- 圧倒的な美貌
- 言葉巧みに男を操る
- 残酷さ
ある意味で、山賊やビッコの女にも、残酷な一面がある。
では、女だけが持つ「残酷さ」をもう少し考えてみたときに思い当たったのが、人間を「おもちゃ」にしてしまえるところにあると思う。
彼女が興じる「首遊び」は、ほとんどが「ままごと遊び」である。彼女は頭の中で組み立てたシナリオを、首たちに演じさせるのだ。首たちは恋をしたり裏切ったりと、複雑な人間模様を演じていく。
恋愛劇のために、美しい娘の首と貴公子の首が欲しい。悪役を演じさせるための、醜悪な顔をした坊主の首が欲しい。この首と首は家族だから、一緒にいなくてはならない。なんて、細かな設定まである。理想の役を演じることができる首であれば、醜い首も女のお気に入りになる。
彼女は気に入った首であれば、醜い顔の坊主に、自らの乳を吸わせて遊んだりもするし、娘の顔に化粧を施してやったりもする。腐ってドロドロになった首であっても躊躇なく触れて遊ぶ。飽きるまでは。
つまり女は人間に対する憎悪や怨恨といったものを抱いて、人を殺させるわけではない。むしろ人間そのものへの関心はかなり強い。しかしそれは愛情を示す対象としての関心ではなく、知的好奇心を満たす対象としての関心だろう。
小さな子どもが悪意なく虫をいたぶってしまうことがあるように、首遊びをしているとき、女は子どものように無邪気だ。しかし彼女は子どもではない。むしろ、美貌も知性も持っている、どちらかというと大人の女だ。
女は「人間」や「人間社会」に強い関心がありそうだ。それと同時に「人間の命」については、とことん関心が薄い様子だ。少なくとも、人の命を奪って首を自分のおもちゃとすることに、心を痛める様子は全くない。
女にとって首は、あくまでも娯楽を提供してくれる物体に過ぎず、同じ土俵に立つ生き物として扱っていないのではないだろうか。これはむしろ、妖怪であったほうが納得できる。同じ人間でありながら、まるで別の世界の倫理で生きているのだとしたら、そちらのほうがずっと厄介だ。
そもそも、「狐っぽい」ってなんなのだ
女が狐っぽいと感じる理由。
- 圧倒的な美貌
- 言葉巧みに男を操る
- 人間を無邪気におもちゃ扱いする残酷さ
- 「顔が見えない」からの鬼演出
再読前は漠然と感じていた女の残酷さも、それだけでは少し弱い。山賊やビッコの女にも、それぞれ残酷と言える一面がある。
女の残酷さを深堀りしていく中で、「人間を無邪気におもちゃにしてしまえる」というところに、私の狐センサーが強く反応しているとわかった。人間の社会に溶け込んでいるのに、人間を自分と対等な存在として扱っていないようだ。そう感じさせる彼女の振る舞いに、人外を感じる。
さらに物語の終盤で、山賊の目には女が鬼として映る。
本当のところ女が鬼であったのか、やっぱりただの女であったのか、最後までわからない。
これだけ狐っぽい、狐っぽいと言っておいて申し訳ないのだが、私自身は、女は人間だったのではと思っている。今回の内容ではあまり触れなかった山賊の心の機微や作品全体のテーマ性などを考えていくと、女が人間であったほうが個人的に納得感が強いのだ。
しかし作中で「鬼の可能性」が示唆されたということは、安吾自身も「人外っぽさ」を意識して女を描いていたところはあるのではないかとも思う。そうした演出もまた、私が彼女を「狐っぽい」と受け取った理由のひとつではないかと考えた。
と、ここまで考えて、もっと根本的な問題があることに気が付く。
そもそも、狐っぽいってなんなのだ。
私は何をもってして「狐っぽい」というジャッジを下しているのだ。
よく考えてみると私の中にある「狐っぽい=妖狐のイメージ」は漠然としすぎているのではないだろうか。美女に化けて男を手玉に取る。欲しいものを手に入れるためには残酷なことも平気でする、人間の倫理観では推し量れない存在。果たしてそれは本当だろうか。
具体的に思い出せる妖狐。九尾の狐。……以上だ。それすらもきちんと調べたことは特にない。なんとなく聞いたことがある伝承の記憶と、それをモチーフとしたさまざまな創作物に軽く触れたことがあるような、ないような……。
「こやつ、もしや狐では」ということを考える前に、「そもそも狐ってなんぞや」に立ち返る必要があるだろう。次は妖狐伝説そのものを追ってみたい。