平方根を極めたことが功を奏したわけではないが、ありがたいことに職業訓練校入学試験に合格した。27歳の春。大学を卒業してからというもの、動かざること山のごとしであった僕の狐生がようやく微動を開始した瞬間である。
教室初日。
ドキをムネムネさせながら教室へ入ると、見知った顔がそこにいた。

なぜお前がここに…
なぜ君が!
ヤツの名前は稲荷狐太郎(いなりこたろう)。家同士がお隣さんで、親同士も仲が良い。いわゆる幼馴染である。
幼い頃はよく遊んだ気もするが、小学校に上がるくらいになると疎遠になっていった。疎遠といっても激しい喧嘩の末に…といったドラマ的なものは何もなく、互いのアイデンティティが成熟するにしたがって、自然と離れるに至った。
そこまで気が合うわけではない。そうかと言っていがみ合うほど険悪でもない。非常に生温い関係性と言って差し支えないだろう。
ヤツは特別な美男子ではないかもしれないが、いわゆる「甘めな」顔つきをしており、学生時代、わりとメスにモテた。なぜメスというのは、やさしげな垂れ目の泣きボクロを拒むことができぬのだろうか。そういうオスこそ、実際にはメスを泣かせるというのに(偏見)。
ちなみに僕の学生時代については何も語るまい。語るほどのことは何もないからだ。

そんな正反対の僕らであるが、先ほども述べたように親同士は仲が良い。つまりは似た者同士なのかもしれない。そんな似た感じの狐たちが産み落とした子供には、たった1つの共通点があった。
まぁ、諦めたというか…
もうすぐ30になってしまうし、そろそろ1回くらいは定職に就いた経験があったほうがいいかなとか…思ったりしてね
僕は芸術家、狐太郎は俳優を夢見て日々布団の中で思索に耽り、素晴らしいアイデアを次から次へと生み出し、それが脳内から飛び出すことは1度たりともなく、労働を経験したことがなかった。

ここへ来た理由も僕と同じようなものだ。狐太郎は歯切れ悪くも返答してくれたが、思わず口にしてしまった僕の問いは些か無神経であったなと、言ってしまってから後悔した。
それでちょっと日付ずらしてもらったの
職業訓練校、もっとガチガチな場所だと思っていたが意外にも融通が利くのかもしれない。そんなことを考えていると、続々とほかの生徒もやってきた。僕らを入れてちょうど20匹。若者もいれば、僕らよりうんと年長の者もいる。

担任のピンク先生の挨拶の後、学長挨拶が始まった。
ここはね、就職を目的として集ってもらっています。
つまりただITを勉強すりゃ良いってもんじゃない。社会生物として正しい姿勢を身に着けてもらいたい。
ゆるゆるなピンク先生と比べると非常に厳格である。
突然の生徒当てに、緊張が走る。
では次は君。会社を遅刻しそうなとき、どうしてたね?
僕をまっすぐ見ている。
先生に当てられる。そんな経験は久しくしておらず、初対面の者たちの前で発言することももともと大の苦手であるから、パニックであった。
意味不明な返答をして、僕のターンは終わった。今思い返してみても顔が火照ってしまって、アカギツネになってしまう。

もし遅刻しそうになったら、早めに電話で連絡してほしい。
これらは社会生物として当然のことだが、この学校も同様。学校だからと堕落した態度では困る。そういう者は容赦なく退学してもらうのでご承知おき願いたい。
以上!
そう言って学長は教室を去った。
学長「挨拶」というか「忠告」というか「驚かし」であったが、去ってくれたことに安堵した。果たしてこんなことでここまで心臓をバクつかせている僕が、半年後に就職なんてできるのだろうか。非常に不安であった。